信州・中野市。
江戸時代は幕府天領としてちょっと特別でしたが、近代はただでさえ観光的要素が薄いのに、優良観光地(飯綱--飯山--木島平--渋温泉--地獄谷温泉--志賀高原--小布施等々)に囲まれてしまい、今やすっかり霞んでしまいました。が・・・ここで2007年、弥生的に大きな発掘出土があったのです。
大昔、西日本は九州を中心とする「銅矛文化圏」と、近畿を中心とする「銅鐸文化圏」にわかれるという学論がスタンダードでした。
平成になってそれが崩れるような発掘・出土が相次ぎ、今では「九州北部から派生した
武器型銅器」と「近畿から派生した銅鐸」の両方が共伴出土する遺跡が、「弥生時代的特別地」とみなされるようになっています。
それまでその共伴遺跡は8か所しかなく、全て西日本&四国。ここ中野市は東日本初の共伴遺跡である上に、銅戈の出土地としても東日本初、銅鐸の出土地としては日本最東端という、弥生的に驚異の記録塗り替え地なのです。
でもマイナー、なんですよ、ねえぇ・・・
※銅鐸は伊豆市でも出土していますが、小銅鐸で古墳時代に差し掛かるのでちょっと別枠で計算します
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信州中野ICから降りてまっすぐ進み、有料道路手前で右手に逸れると「北信濃ふるさとの森文化公園」に入ります。その公園内で一番標高の高い所(H440m)が博物館。
この博物館、元は「創造館」という公園施設だったため、プラネタリウム併設(↑右のドーム部分)。かつ、文化公園に従って火曜休館なので要注意★
柳沢遺跡の出土品は県宝に指定されていたので長野市の県立博物館が所蔵してましたが、2014年に「国の重要文化財」に指定されたのを機にこの市立博物館を大改修して準備。めでたく中野市が取り返し、今に至ります。 ※国宝や国重や県宝に指定されてしまうと、保管環境が整って無い地方自治体には返還してもらえないのです。。。。
「発掘された日本列島2009」(7月)で柳沢遺跡が取り上げられ、その直後(8月)に信州へのIターンが決まり「これは絶対、中野市へ行かなきゃ・・・!」(※但し数年後に。出土物の常設展示は「調査・研究・復元」などで「出土から4~5年後」になるのが普通)と思っていたのに随分経ってしまったけど・・・・・・出土地で見ることが出来たのは、幸運です。
何故かと言うと、中野市には柳沢遺跡だけでなく千曲川流域に結構重要な遺跡が集中してまして(というか、市内の狭い平野を縦断する千曲川の築堤工事をしたら次々と発見された=川じゃないところにもっとあるはず・・・)、それら全部をここで展示しているから。そのため、ちょっと整理が必要です。まずは縄文時代から!
<姥ヶ沢遺跡>
場所:博物館の北西、旧千曲川右岸の谷あい。
時代:縄文中期(B.C.3000年)
縄文土偶「姥ヶ沢ヴィーナス」が1982年に出土。他、土偶27体分の破片など。
<千田遺跡> 2002年発掘
場所:博物館の北西、旧千曲川左岸の替佐駅南側。
時代:縄文前~中期(集落は縄文中期、弥生後期、古墳時代)
石鏃や磨石などの石器類3000点以上、土偶230点ほど(縄文中期~後期)、
北陸系土器、東北系土器など、とにかく土器多い!
弥生時代です。
<栗林遺跡>
場所:博物館から南西(ICの方)1.5km、旧千曲川右岸。(H340m)
時代:縄文後期~弥生中期
ここで出土した特徴的な土器は「栗林式土器」(弥生時代中期~)と言い、後に吉田式土器(長野市)を経て箱清水式土器(長野市、通称「信濃の赤い土器」)に移行する、弥生前期の代表土器です。分布は越前から下越までの日本海側と、東信から関東の群馬~埼玉~東京まで、中信は諏訪までが多く、飯田にも一件・・・・・・ん?これって「出雲族の移動ルート+氷川圏」&「安曇・諏訪ルート」じゃ??
↑↑遺跡出土品。磨製石斧が多かったらしい 柳沢遺跡出土の栗林式土器↑↑
「遺跡は復元されてますか?」と聞いたら「看板があるだけ、現地は栗の林です」
字名も「栗林」だ。。。←もしかして野生のクリ?
<柳沢遺跡> 2006年発掘開始
場所:夜間瀬川と千曲川の合流点の東側。高社山西麓の裾野。(H327m)
時代:弥生中期後半~後期後半
銅戈8本(北九州型1:大阪型7)と銅鐸5個。
展示場所は順路的には最後の ↓↓収蔵庫のような部屋(複製銅鐸は朝日遺跡の)←愛知県
壁際には栗林式土器など39点、石器・石製品160点(勾玉以外は全て重文)↑↑
銅鐸は1個だけ流水紋(好き)で、銅戈6本と同じ埋納抗。他は後の金属探知で見つかったそうで、残り4個は袈裟襷紋みたいだけど欠損部分や摩耗が多く不明。どれも初期の「聴く銅鐸」です。
銅戈は九州型と近畿(大阪)型が同時出土したのが日本初とか。
遺跡には埋納抗の他、水田跡や住居跡や礫床木簡墓も ↓↓(部屋の外に展示)
ヒスイの勾玉(糸魚川産かどうか記載なかった)や菅玉は、この墓の副葬品。
中野市周辺ではこの時代の玉作遺跡が発見されていないので(もっと南東の上田市には古墳時代の玉作遺跡がある)、菅玉は「ここから北の吹上遺跡(上越市)で製造されたもの」と推定されてます。
市内東部を占める高社山(高井富士)から北は北陸気候で、積雪量が段違いに多くなります。柳沢遺跡はちょうどその境にある感じ。何か意味シン。
埋納抗の発見が2007年10月で、雪に埋まってしまう!(=発掘できずに腐食が進む!)と埋納抗の周辺の土をゴッソリ刳り抜いて移動させた――というドキュメンタリー映像(5分)を、常設展示の中央でずっと流してました。
出土時はまだ金色だったのにすぐ酸化が始まったというから、そりゃ焦りますね
古墳時代・・・は普通です。
<蟹沢古墳>
場所:桜沢駅の東500mの尾根上(H約450m)、私有地
時代:不明(弥生前期前半?)
出雲にも多い、前方後方墳。未調査。前身の弥生時代末期の前方後方型周溝墓から東海系土器が出土しているから「東海との交流を背景として築造された」そうだけど・・・・・・東海に一番近い南信には前方後方墳が1個も無いのに??
↑↑「前方後方型の周溝墓-->前方後方墳へ発展した」という説明版。信州の前方後方墳といえば、松本市の弘法山古墳(国史跡なのに平成まで墳頂で桜祭りしてた)が最古級かつ最南。他は佐久の南に1基。残りは全て北信にあります。
<高遠山古墳>
場所:延徳駅の東1.4km(H360m)
時代:古墳時代前期(3-4C)
前方後円墳。出土品は長野県宝。
この後、珠洲焼の壺の「埋納銭」や天領などの展示がありますがさらっと流し ↓↓
最後は「蛇行剣」とその保存技術の展示で終わりました。
博物館の最上階から展望が望めるはずが、先日の強風でガラスが割れて立入禁止中とのことで、図録を買ってから屋外の展望テラスへ 。
志賀高原方面↓↓ 遺跡に関連する高社山が見えないのは残念・・・
反対西側には北信五岳(今は信越五岳と言うらしい)の飯綱&黒姫 ↑↑
ここから歩いて行かれる距離に古墳がありますが、「復元された遺跡は市内には1つも無い」そうなので、これにて終了です。
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10年ほど前は「北信に四隅突出型墳丘墓(大好き)らしきものがある」という情報を得ていたのですが、どうやら今ではそれは「四隅とは違う」ということになったようで、遺跡データベースで検索しても出てきません。福島県のも同じく、現在では「四隅突出型周溝墓」に分類されている模様で、現在の「四隅分布図」(あるんです)には載っていません。残念・・・
どちらにしても、北国街道を通って北陸から出雲文化(というか出雲族)が入ってきて
いたことは確かだろう―――ということで、信州中野はWにとって「ちょっと特別な地」でした。やっと訪問、できた。。。。←もちろん神社巡りもしまくりました!
「彼ら」はそのまま千曲川を遡って東信へ進み、上野国(群馬)をかすめ、最期は武蔵国(氷川&イワイ神社エリア)へ辿り着いたのではないかと言われています。
大宮市に住んでいた頃から「氷川神社と出雲の繋がり」に興味津々でしたが、当時は
どのルートで関東入りしたのか不明でした。ヤマトタケルと同じく碓氷峠越えだろうと推測されてはおりましたが、あの人、別書では富士の樹海も北アルプスも越えてる「鉄人」だから、信頼度低いんですよね・・・・・・あれから30年、色々な学者のおかげでかなり解明されて、神社・遺跡巡りに大変助かっています。
さあ、次は群馬かな!
出雲や大阪のと一緒に銅器色々を復元展示↓↓