風土記の丘★さきたま(埼玉県)
大宮市で育ったので遠足で2回、親族と3回は行ったでしょうか。
この遺跡敷地内を通過する「鉄剣マラソン」というのがあって、父がそれに毎年参加していたもので。30年ほど前までの話。
そのため一人でじっくり観覧したことは一度もなく、記憶にもほとんど残っていないという「風土記の丘」二番手、さきたま。
C98(2020年GW)のついでに行こうと予定していましたが、コロナ禍で延期。
2021年冬コミ(C99A)でやっと行かれました。
最寄駅はJR高崎線の行田駅。東武秩父線の行田駅の方が距離的に近くも、遺跡前のバス停はJR行田発の路線です(東武行田発のバス停は遺跡入口から1.2km西)。
高速は羽生ICが一番近いですが、長野県からは関越を南下し本庄児玉ICでおりて下道R17「深谷バイパス」へ。Pは入口の反対側で、広々無料
歩道には県章「勾玉16、心の輪」↓↓ いや、もういいよ世界遺産は・・・↓↓
2020年に国史跡から特別史跡へ昇格したのも、この前準備↑↑だという噂・・・
「さきたま」の漢字は「埼玉」ですが、元は「
東京都との境にかけられた「幸魂大橋」の由来もコレですね。
この
県庁所在地や経済の中心は最南部なのに・・・
そのため、博物館へのアプローチ左手に「埼玉県名発祥之碑」があるのですが、大宮市民だった私は思わず舌打ち。忌々しくて写真を撮るのも忘れた(笑)
かと言って「入間県」もイヤだし、実は「氷川県」も・・・氷川神社、好きだけどゴロが悪いし、なんだか冷たそうで関東気候に合わない。落ちたら凍死しそう。
せめて漢字を「幸珠」にするか、いや、読みを
だから長野県民のキモチ、わかります(大笑) ただの村名を「有名な善光寺の所在村だから」って県名に採用するなんて、埼玉より酷い。筑摩県も更級県も一地域すぎて論外。信濃県で良かったのに。全ては旧国名を嫌った明治政府の意地のせいです
気を取り直して。まずは博物館へ。
< さきたま史跡の博物館 >
ここはこの古墳群の出土物展示だけのための博物館で、入館料は常設・企画合わせて誰でも¥200と格安。その分、エンターテイメント性は皆無。
県立といえどもメイン(=経費が多いの)は人口過多な大宮区の、県内全域と全時代を網羅する 歴史と民族の博物館(氷川神社の北)なんだろうな・・・ ←遠足で一回入ったことある。
この「国宝展示室」が常設展示室↓↓ 入口入ったら右へ→
その手前は勾玉造り専用室?「さきたま体験工房」↑↑
ここは玉造工房跡が出たわけでも、良質の玉類が大量に出土したわけでもないけど(笑)名称に引っ張られたんでしょうね。おかげで県章もアレだし。
まずは、発掘から整備の記録の↓↓パネル展示エリア↓↓
↓↓次のロビー空間に年表や古墳対比表や古墳グッズ(ここでは売ってない)が展示。
お、空撮↓↓ 近畿(左端)に比べると、この関東の古墳の小ささよ・・・↓↓
右端が群馬県、中央は全部埼玉県(赤いのが「さきたま古墳群」の古墳)↑↑
いよいよメインルーム↓↓ ここは撮影条件がきちんとしてます↓↓
卓状の展示ケースは上から撮ってはいけないとか、自撮りも禁止とか。。。それだけじゃなく、鉄剣(国宝)の展示ケースにピント合わせながらジリジリ接近しようものなら、係員に速攻止められてました(笑)↓↓
多分ぶつかってガラスを割ったり、落っことしてケースを壊したりしたヤツが実際居たんでしょう。でも、国宝をそんなモロいもので展示するのが間違いでは??
どちらにしてもここは反射が激しく、真正面から撮ると自分がモロ写ってしまうので、全体的に斜め&横から撮影。ガラスに傾斜つけるとか、照明角度を考えてくれるとイイんですが、古い博物館は中々難しいですね。 展示される唯一の勾玉↓(国宝)
国内の銘文刀剣一覧↑↑ 最古はやっぱり七支刀(奈良・石上の神宝)
国宝なのはこの七支刀と、ここの稲荷山鉄剣と、熊本の江田船山鉄剣の3つ。。。
素材や製造年よりも、刻まれた文字の多さが決め手かな?
さりげなく安閑紀の「武蔵国造争いの記事」もありました。武蔵国は広くて、現在の埼玉県、東京都、そして神奈川県北部も含むのですが、解説展示は「なぜ北端のこの地が国造の本拠地として栄えたのか?」の解の1つになっています。
解説パネルも多く、中々でした。1969年(S44)開館の老舗の割には頑張ってる。って、そりゃ1983年(S58)に国宝指定された出土品たちを取り戻すためには、頑張るしかなかったですよね
受付でカタログやトートバッグを売っていましたが、ミュージアムショップが無い点も頑張ってほしいところです。
企画展示室では「動物のはにわ展」↓↓をやっていたので、そちらもチラ見。
作り方解説!これはイイ↑↑
では、古墳巡りに行きましょう。
「さきたま古墳群」は大小含めて33基、本来は40基あったのでは?という古くからの国史跡(1938、S13)で、大型9基+αが敷地内に整備されています。しかし、葺石復元はゼロ(というか葺石していた古墳がほとんど無い)、完全復元(石室含む)もゼロ。
すぐ北の群馬の古墳9割が葺石だったのに比べると、凄い違い。
芝生が生い茂るのっぺりした古墳たちが高低差の全く無い平地に優雅に横たわる、そんな特別史跡。。。。。迫力な(無)~~~↓↓↓ (しかも茶色い・・・)
これに慣れてしまっていたから、子供の頃は古墳・・・まして古代には、全く興味が無かったんです だって田舎の風景そのままなんだもの。のどか過ぎる。。。。
入口近くには「はにわの館」(工房?)と屋根付きの大きいレストハウスがあり、イベントも出来そう↓↓
その横に「瓦塚古墳」(墳丘長73.4m/6C前半の前方後円墳、内部未調査)↑↑。 形象埴輪が多数出土。右奥に見えるのは↓↓二子山古墳かな・・・?
ここの前方後円墳はみな二重の方形周溝だそうです↑↑ ちなみに各古墳の大きさ対比はこんな感じ↓↓ ↓丸塚古墳 ↓稲荷山古墳 上が北。 丸塚↓古墳 稲荷山↓古墳
さすが、全9古墳の全てが国土地理院でハッキリ等高線に出てる↑↑ 将軍山古墳はガケ表記されとるし(愛宕山古墳は「ま」の処)。しかし、まずは東の前玉神社へ参拝するのが礼儀でしょう。
< 前玉神社 > 式内、旧・郷社
実はこの神社、浅間塚古墳(高8.7m墳径50m/7Cの円墳)の墳頂に本殿が建ってます。
こんな式内は他に無い・・・・・・後代に古墳を利用して建てられた神社と違い、「古墳築造時の施設がそのまま神社になった?」と思える状況。
この古墳を疑似登拝用の富士山に見立てて近世浅間神社が勧請され、今はそちらの方が強い模様。境内には登拝記念碑が乱立し、最初の階段を登った右手に浅間神社が↓↓
社殿は墳頂↑↑ 参道は北東から延びているのですが、古墳を時計周りに半廻りし、南東を向く社殿へ急階段。階段下には万葉歌碑でもある↓↓石灯篭(1697年村民が奉納)
中世日本庶民の教養高っ
祭神は『神社名鑑』によれば前玉命ですが、神社HPでは「前玉彦命・前玉姫命の二柱」。延喜式の記載は「前玉神社二座」なので、元々二柱祀っていたのを『名』では省略したようです。このエリアに濃い出雲との関りを示せるのは「大国主の後裔」である前玉姫命の方ですから、まさか一時期廃祀してたなんてことはないだろうし・・・
眺望は無いですが、↓↓彫刻も素晴らしく良い神社でした。
しかし境内は、浅間神社の祭神の幟で一杯・・・↑↑ 神事も浅間関係ばかり「めでた好き」の江戸っ子め 一の鳥居(1672年製、額は「富士山」・・・)横の金澤製菓では、「古墳最中」(円墳?)や「まが玉最中」を売っています。
ここから「明治神社」の左手へ抜けて、南エリアへ―――
< 鉄砲山古墳 > 墳丘長107.6m高9m/6C後半の前方後円墳
南エリアで一番大きい古墳。円筒埴輪や土器が出土。後円部に横穴石室アリ(調査は??) こっちエリアで凄いのは文部省の「石(?)の注意看板」↓↓
「古墳の形に変化をおよぼすようなことをしてはいけません」
「古墳の立ち木をみだりに切ってはいけません」
「みだりに古墳の上にあがらないようにしましょう」
石標は「埼玉村」だし 一体いつのだコレ・・・ 立木なんて一本もナイぞ
この影響か「さきたま古墳群」は珍しく「古墳は登ってはいけないもの」と決まっていて、その旨園内にハッキリ提示されています。「登れる古墳」は階段が設置されている稲荷山と丸墓山のみ。その他の、整備されただけで復元していない「登れない古墳」は、どれも似たようなもので・・・
「中の山古墳」は墳丘長79m高5.5m/6C末以降の前方後円墳。前方部の方が高いとは・・・
ここの須恵器質の埴輪は末野遺跡(ここより西の寄居町)の窯で造られたモノだとか。
「奥の山古墳」は墳丘長66.4m高m//6C半の前方後円墳。子持壺などの須恵器出土。
↑↑12月末で水仙! 右手奥は鉄砲山古墳↑
ここで一度Pの車に戻り、栄養補給してから北エリアへ。
< 将軍山古墳 > 墳丘長90m現高19m/6C後半の前方後円墳
後円部に横穴式石室(大和朝廷影響のインフラ)があり、明治に発掘された効果か、ここだけハニワが再現。&横に↓↓展示館(入館は16時まで)を設置。
ここに石室が復元されてます。蛇行状鉄器や馬冑など、副葬品も豪華に↑↑ 入館料は¥200ですが、博物館のチケットで入れます(逆もOK)。南西にはPあり。
< 稲荷山古墳 > 墳丘長120m現高24m/5C後半の前方後円墳
1998年(H10)までは前方部が崩壊して「円墳の状態」だったのを、6年かけて復元。
鉄剣出土が1968年。文字発見はその10年後(1978、S53)で、本当にその頃から、遠足やらマラソンやらで行ってた。。。後円部に横穴石室があり↓↓、埋葬施設2基。
↑↑墳頂にはその石室の実物大の礫郭と粘土槨を展示。
< 丸墓山古墳 > 墳丘径105m高35.7m/6C初の円墳
円墳としては日本一の大きさで、この古墳群の中でも一番高いので眺望一番☆
富士山↓ ↓↓たぶん雲取 ↓甲武信岳かな??
南アルプス↓↓ 八ヶ岳と蓼科山↓↓ 浅間山↓↓ 右手には赤城山→
↑↑稲荷山古墳の左奥に見えるこれは、多分筑波山、だなあ・・・ すごい丸見え。
そしてここだけ、葺石の可能性があるそうです。おお!
この古墳から忍城がよく見えたため、石田三成の忍城攻めに利用されたとかで、ここからPまでの道が「石田堤」↓↓なんだそうな。あー・・・確かに浅間山の手前右手に忍城の櫓、見えてる・・・ ↓↓このエリアは桜だらけなので、春は市民が多そう
< 二子山古墳 > 墳丘長132.2m現高30m/6C前半の前方後円墳
県内第一位のサイズの前方後円墳。でもやっぱり地味・・・
実はほんとどの古墳が「内部未調査」。正確な石室の位置がわかるまでは発掘不可、なんでしょうか。だったらこの二子山古墳は石室の位置が推定されているので、近いうちに「世紀の大発掘」のニュースを聞くことになる・・・かも、しれませんね?
P横の「愛宕山古墳」は墳丘長54.7m/6C後半の前方後円墳。
円筒埴輪・形象埴輪が出土。現在はここをレーダー探査しているようです。
ここも墳頂に愛宕神社とか建てられちゃってたんだろうな・・・と思ったらその旨HPに載ってました(今は石仏)↑↑
全く・・・どうしてこう、小さい丘を見ると神社建てちゃうんでしょうね日本人は。 あ、ここは一番小さいので、整備ではなく、いつか復元してくれるかも‥‥
(完)